ドクメンタ、ミュンスター彫刻プロジェクト、ベネチアビエンナーレ
フランクフルト、カッセル、ミュンスターと、ベネチアを回ってきました。今年はアートイベントの当たり年で、5年に一度のドクメンタと10年に一度のミュンスター彫刻プロジェクト、そしてベネチアビエンナーレが同時に開催されています。
なかでも初めての訪問ということもありミュンスターで行われている彫刻プロジェクトが僕にはとても印象的でした。ミュンスターの特徴として「パブリックスペース」と「アート」について町の立場からもとてもよく考えられているという点があります。実際に歩いてみて、こちらも深く考えさせられました。
http://www.skulptur-projekte.de/
http://ja.wikipedia.org/wiki/ミュンスター彫刻プロジェクト
とくに気に入ったのが初回に創られたドナルド・ジャッドのベンチです。同じような大きな円筒がふたつ斜面に生えており、ひとつは斜面に沿って、もうひとつは地面に垂直に生えているのです。ふたつの円は交わることなく、角度を変えて重なり合っているように見えます。これらがミュンスター郊外を流れる大きな川を眺めるように設置されています。重要なのがこれが「ベンチ」であることです。
不思議なプロセス
こういう仕事をしていると、不思議な出来事に出逢うこともあります。
デザインという仕事では現状の様々な問題点の分析と解決法の模索を一番最初に行います。問題の中にこそ答えのヒントがある、そして答えはオートマチックに生成されるためです。それが実用品で、大量生産品であればなおさらこの傾向は強くなります。この方法はデザイナー自身が思いも寄らぬ斬新な答えを生み出すことも多く、革新の原動力となっています。過去や現状への不満と、その解決への情熱が未来を生み出すと言い換えることもできるでしょう。
もちろん、こうした方法を用いないデザインも世の中には多いと思います。直感的なもの、感覚的な造形、あるいは衝動的なもの。。。様々なプロセスがあり、プロセスそのものにはどれにも優劣をつけることはできないでしょう。
しかし、そうした現実を踏まえた上でなお「不思議な出来事」と思わざるを得ないこともあります。じつは先日、新作のデザイン中にそれが起こりました。
善きデザイン
僕のデザインの目指す方向のひとつが「普遍性」です。普遍的な善いデザイン。とてもあいまいで多様な考え方があると思いますが、僕自身がユーザーの立場に立って考えるときにいくつかの条件を(自分自身が)求めていることに気付きました。
1:機能性
2:永続性
3:審美性
この三つの条件のバランスの取れたもの、いやいやそのバランスにもいろいろなものがあるのですが、中でも普遍性の高いほうへとバランスがとれたものが僕は好きなのだな、と気付きました。
それは、普通であることの美、というものがあるのではないか、という盲目的な希望です。端正で、静かで、安定してて、素材や構造に素直で、機能的で、、様々な条件がオートマチックに鍛え上げた普通の美。それこそ道具の美学なのでないでしょうか。
ありふれた道具に宿る美学については、僕の大学時代の師であるGKの栄久庵先生が追求されていました。
僕は優秀な生徒ではありませんでしたが、普通の道具の美学にはなぜかとても魅かれていました。
そして今もとても魅かれつづけてています。
機能と装飾
僕はプロダクトをデザインする上で「機能性」と「装飾性」の関係について、とても気にして(気になって)しまいます。
「装飾性を重視すれば機能性を犠牲にせねばならず、機能性を重視すれば装飾性を排除しなければいけない」そういう意見って、けっこう耳にします。デザインという仕事をする以上、そのような事態には往々にして遭遇するのも確かに事実なのですが…
初期のバウハウスでは意外にもエモーションや精神にも重点を置いていました。ですが、これは(善し悪しは別として)合理化や機能主義に押されてしまいます。その一方、ル・コルビュジェはダダやピュリズムの作家と共に「エスプリヌーヴォー(新精神)」という雑誌を創ることで、モダニズム時代における精神性の在り方を模索しています。コルビュジェの建築が合理性の追求でありながらも詩的とも言われる由縁です。
デザインの思想へと向かう道の途中で
自己紹介をしようと思い、自分自身について考えています。ところがこれが思ったよりも難しい。僕が自分について理解するにはもう少し時間が必要なようです。しかし、その思考のプロセスにおいて気付いたことがあります。
僕は(ある意味心外なのですが)作り込みが執拗だ、とよく言われます。もちろん自分としては完成度はまだまだ理想に届かないことが多いと思っているのですが、その磨き込みのしつこさは認めざるを得ません。(まわりには御迷惑をかけております。ほんと、すいません。)
その磨き込みをなぜ行うのか、その欲求の源泉とはなにか。どうして僕は創るのか。それを知る手がかりは自分が仕事に対して一貫してとりつづけている共通項にあるのではないか。それはおそらく「素直さ」という言葉で表現できるものかもしれない。そう思うに至りました。