なかでも初めての訪問ということもありミュンスターで行われている彫刻プロジェクトが僕にはとても印象的でした。ミュンスターの特徴として「パブリックスペース」と「アート」について町の立場からもとてもよく考えられているという点があります。実際に歩いてみて、こちらも深く考えさせられました。
http://www.skulptur-projekte.de/
http://ja.wikipedia.org/wiki/ミュンスター彫刻プロジェクト
とくに気に入ったのが初回に創られたドナルド・ジャッドのベンチです。同じような大きな円筒がふたつ斜面に生えており、ひとつは斜面に沿って、もうひとつは地面に垂直に生えているのです。ふたつの円は交わることなく、角度を変えて重なり合っているように見えます。これらがミュンスター郊外を流れる大きな川を眺めるように設置されています。重要なのがこれが「ベンチ」であることです。
僕はここに大勢のひとが座って語らう様を想像しました。彼らはいったいなにを議論しているのでしょう。斜面に沿ったリングは保守的な勢力、重力に垂直に起立するリングは革新的な勢力でしょうか。ふたつのリングは交わらないのですが、離れることもありません。ベンチに立つとお互いの様子をよく見渡すことができ、ときには立場を逆転させて相手の視点で自分たちを見ることも可能です。この場ではどちらの勢力も同じ議題に対して議論し協力して解決の道を探る仲間なのです。異なる意見がぶつかり合い、コミュニケーションと相互理解によって生まれるダイナミズムこそが本当の進歩を生む。僕にはこの彫刻がそう語っているように見えました。
もうひとつ、ホルヘ・パルドの水面に浮かぶウッドデッキも気に入りました。ここで静かにミュンスターという土地と対話するも良し、誰かと対話するも良し、心を無にして自分自身と対話するも良い。ここは様々なコミュニケーションを深く深く行う場所なのでしょう。どちらも建築的なものを選んでしまったのは僕は建築家だから、なのでしょうけど(笑)
建築と言えばもうひとつ。ミュンスターにはボレス/ウィルソンという素晴らしい建築家がいらっしゃいます。恥ずかしいことですがこの地に訪れるまで僕はすっかり彼らのことを忘れてしまっていました。ですが、彼らの設計した図書館を遠くにチラリと見た瞬間、すべての記憶が音を立てるように甦ったのです。
ロンドンのAAスクールの教授として世界的に名をはせた彼らは、いわゆる田舎であるミュンスター(ボレスの故郷でもある)に落ち着き、町のローカルアーキテクトとして根付きました。ミュンスター市立図書館は彼らの処女作ですが、開館1年にして貸し出し数が数百万冊に昇るなど事業としても大成功した図書館として世界的な話題になったのです。(つづく?)
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デザインという仕事では現状の様々な問題点の分析と解決法の模索を一番最初に行います。問題の中にこそ答えのヒントがある、そして答えはオートマチックに生成されるためです。それが実用品で、大量生産品であればなおさらこの傾向は強くなります。この方法はデザイナー自身が思いも寄らぬ斬新な答えを生み出すことも多く、革新の原動力となっています。過去や現状への不満と、その解決への情熱が未来を生み出すと言い換えることもできるでしょう。
もちろん、こうした方法を用いないデザインも世の中には多いと思います。直感的なもの、感覚的な造形、あるいは衝動的なもの。。。様々なプロセスがあり、プロセスそのものにはどれにも優劣をつけることはできないでしょう。
しかし、そうした現実を踏まえた上でなお「不思議な出来事」と思わざるを得ないこともあります。じつは先日、新作のデザイン中にそれが起こりました。
僕の作業場には山のような試作品や試作部品がころがっています。とくに僕は素材や技術と格闘しながら、それらから学びながら作るタイプなので、なおさらです。情報はモノの中にあり、いつも自分は白紙であり無知なのです。
そういうわけで作業台はいつも試作品があふれていて掃除が大変です(汗)日課ですね。
先日も掃除をしていましたところ、試作品の山のなかからキラリと光る部品が出てきました。これ、じつは発注先が間違えて作ってしまったもので、使えないからそのまま放置していたものです。届いた時はとくになんとも感じなかったのですが、今日はなぜか輝いてみえます。
その前夜、別の製品の試作塗装の仕上がりをチェックしてました。1年前は不可能だと言われていた塗装が完成したのです。それ自体はあまりパッとしなかったのですが、その技術だけは記憶に残っていました。
今日、発掘した部品を見た瞬間、なぜか昨日の試作塗装の記憶が甦りました。すぐにスタッフに同じ塗装を施した部品を探させたところ、昨日チェックしたものとはまったく別の部品にその試作塗装を施したものが見つかりました。
これがなぜかピッタリと合ったのです。色、質感はもちろん、サイズまで。驚きました。専用設計なので、他の部品が合うなんてことは本当に稀なのです。
すぐにスタッフに足りない部品を組み合わせて、カタチだけでも完成形を作るように指示しました。数分後、その場の有り合わせの部品でそれはできました。できたのですが、何かが物足りません。先ほどの輝きが感じられないのです。う〜ん。
こういうときはしばらく寝かすに限ります。眼が馴れたり、閃いたりすることもあるからです。そもそも考え抜いて作るいつものプロセスのものではないですから、考えても無駄なんだろうな、と思ったんです。
ちょっとしょんぼりしながら作業台に試作品を置きました。すると、その隣に輝く部品が置いてあるではありませんか!!足りないのはこれだ!とその瞬間わかりました。すぐに取り付けてみると、本当にぴったりで、最初からこの形が完成形だったのではないか、というくらいに素晴らしいデザインです。
その部品は数日前にスタッフに取り寄せ依頼してた別件の部品でした。しかも加工に出す直前の本来予定していなかった状態で置かれていたんです。それがピッタリきたのです。
でき上がったものを並べると、どこにも革新性も独創性もないのに、誇張ではなくて本当に神々しいくらいの不思議な印象があります。ごく普通のデザインなのに、なにかが違うのです。ワケワカりません。
これは僕の作品なんでしょうか?僕は違うと思っています。不思議な偶然が重なり、自ら生まれ出てきたデザイン。僕はただ素材に導かれるままに組立指示したにすぎません。便宜上、世の中に出るときは僕の作品ということになってしまうのですが、本心は僕の作品ではないと思っています。
なんとも不思議なこともあるものです。
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Amazonでも売ってます。
http://astore.amazon.co.jp/mid-22/detail/B000OG29HW/503-4933604-6169558
でも正直言うと、メーカーの手違いでデザイン案よりも針がやや短い、、、んですよね。。。短い(涙)
なんとかデザイン通りの長さに改良してもらえないか、おねがいを続けてみます。。
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1:機能性
2:永続性
3:審美性
この三つの条件のバランスの取れたもの、いやいやそのバランスにもいろいろなものがあるのですが、中でも普遍性の高いほうへとバランスがとれたものが僕は好きなのだな、と気付きました。
それは、普通であることの美、というものがあるのではないか、という盲目的な希望です。端正で、静かで、安定してて、素材や構造に素直で、機能的で、、様々な条件がオートマチックに鍛え上げた普通の美。それこそ道具の美学なのでないでしょうか。
ありふれた道具に宿る美学については、僕の大学時代の師であるGKの栄久庵先生が追求されていました。
僕は優秀な生徒ではありませんでしたが、普通の道具の美学にはなぜかとても魅かれていました。
そして今もとても魅かれつづけてています。
僕はたくさんの時計をデザインしましたが、7年前に初めてデザインした時計は、極めて普通の美しさがあると自負しています。道具としての基本に忠実な普通の時計。見やすく、飽きが来にくく、本物の素材(プライウッド)を使用した美しい時計です。値段も頑張って安くして、多くの人に使ってもらえるようにしました。GKデザインのキッコーマンの醤油差しのような時計を目指したのは事実ですが、素朴で機能的なデザインは、僕の尊敬するアアルトの建築や家具からの思想的な影響も強かったのだと思います。
普通美は、僕がTL社のデザインを引き受けて取り組んだ最初の仕事であり、その後のTL社のデザインの基本方針へと(勝手に)据えてしまいました。時を計る道具として、もっとも美しいもの。それは誠実な素材と構造に基づいた、シンプルで機能的なモダンデザインであってほしい。TL社はもっとも普通で美しい時計を造るデザインメーカーになってほしい。
その誠実な普通の美しさが、ユーザーの方々の幸せの片隅に寄り添い、生活の供として長い年月を生き抜いてくれることを願っています。
追記
そうそう、ここに登場した僕の最初の時計は、アアルトのARTECにて販売されました。尊敬する巨匠の家具と同じ場所に置かれることは、ただそれだけでとても嬉しかったです。また、この兄弟機はMoMAへ向けて太平洋を渡っているところです。
「装飾性を重視すれば機能性を犠牲にせねばならず、機能性を重視すれば装飾性を排除しなければいけない」そういう意見って、けっこう耳にします。デザインという仕事をする以上、そのような事態には往々にして遭遇するのも確かに事実なのですが…
初期のバウハウスでは意外にもエモーションや精神にも重点を置いていました。ですが、これは(善し悪しは別として)合理化や機能主義に押されてしまいます。その一方、ル・コルビュジェはダダやピュリズムの作家と共に「エスプリヌーヴォー(新精神)」という雑誌を創ることで、モダニズム時代における精神性の在り方を模索しています。コルビュジェの建築が合理性の追求でありながらも詩的とも言われる由縁です。
現代ではさらに要素は複雑です。技術は進み、市場は飽和し、多様性がカンブリア爆発のように増殖を続けています。市場においては販売上のトレンドというものにかろうじて束ねられているのですが、もはや合理主義と表現主義と言った単純な構図ではなく、その中間層が無限に分裂しつつあります。言わば市場主義です。
僕はこのカオスを、これは確かに市場原理に基づくものなのですが、プロダクトが人間性に回帰する動きだと捕らえています。これこそ、現代の市場が求めているインサイトなのではないでしょうか。幸いにして、現代ではCADの発達で合理的に表現主義を生み出すことさえ技術的に可能となったことも要因のひとつでしょう。
ここからは僕自身のことに限定されてしまうのですが、僕は未だにプロダクトにとって機能性の追求こそが最大の使命だと考えています。重要なのは、この機能そのものが現代ではシフトしており、人間性の回帰や精神性の獲得すら機能(商品力)として求められているといる点。この製造の構造では、機能主義という合理的なシステムの上に、高い精神性をもたらす表現主義が、完成された「美」として実現することが可能です。つまり現代においては合理性すら一種の装飾であり、両者は両立共存しているのです。
機能主義、表現主義、どちらにウェイトを置こうとも、それぞれのポジションでの美しい精神性、芸術性を湛えていること。それはつねに目指していきたい僕の理想のひとつです。
いやその前に、芸術性とは、いや、芸術とは何ぞやということについて、一度考えを整理してみたいと思っています。
]]>僕は(ある意味心外なのですが)作り込みが執拗だ、とよく言われます。もちろん自分としては完成度はまだまだ理想に届かないことが多いと思っているのですが、その磨き込みのしつこさは認めざるを得ません。(まわりには御迷惑をかけております。ほんと、すいません。)
その磨き込みをなぜ行うのか、その欲求の源泉とはなにか。どうして僕は創るのか。それを知る手がかりは自分が仕事に対して一貫してとりつづけている共通項にあるのではないか。それはおそらく「素直さ」という言葉で表現できるものかもしれない。そう思うに至りました。
素直な発想。素直な素材。素直な加工。素直な構造。素直な組立。素直な機能。素直な使用経験。シンプルで素直な存在理由が常に在り続けること。ここに居てもいいという素直な安心感。そうして磨かれた結果という強さを持ってオートマチックに生まれた、素直な美。
アイデアの発案から膨大なスタディを経て、素材のリサーチや工場の技術検討、基本設計、そしてそれらを再びアイデアへと戻して新たなスタディへと繰り返すサイクル。僕はそのサイクルの繰り返しを何度も重ねてデザインを磨き込んでいます。この循環は止まることなく続いていて膨大な経験情報となり僕の中にストックされ熟成されています。つねに新しい経験によって熟成され、醗酵し、忘却と言う濾過を経て、シンプルで素直なデザインへと昇華されていく無限のループ。そして時折、この循環のなかから製品化へとスピンアウトしていくものもあります。この製品化の経験がまた新たなアイデアへと還ってきているのです。
このような、現場での経験から得られた生きた知識から生まれる素直なデザイン。きっとそれが僕の理想のスタイルなんだろうな、と思考のプロセスの途中において気付きました。
(まだ道の途中なので理想と現実がまざった表現になっています)
この僕のデザインのサイクルはまだまだ始まったばかりです。デザインの素直さはおそろしく奥が深く、磨きがいがありそうです。これは苦しいのですがとても楽しい仕事です。
]]>今日は作品の画像を掲載してみました。左サイドバーの「pieces of works」のlinkをクリックすると画像を見ることができます。これからまだまだ増えますし、イマイチなものは削除していきます(もちろん失敗作もけっこうあります(汗))。
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